横川元代議士襲撃事件

昭和29年05月29日 参議院 地方行政委員会

(略)

[082]
労働大臣(自由党) 小坂善太郎
日本共産党が合法政党としてその主義主張を法の許す範囲内で公然と宣伝或いは扇動されることについては我々として干渉するものではないのであります。併しながら、終戦後日共内の指導的理論とされて参りましたいわゆる野坂理論、平和革命の可能性という理論が昭和25年の1月コミンフォルムの批判を受けまして、爾来平和革命の可能性はあり得ないという考え方によって党活動が行われていることは極めて明らかであります。

例えば昭和26年10月に開かれた日共の第五回全国協議会において決定されたと言い、又党の公然機関誌、前衛その他に発表せられた「日本共産党当面の要求」の中には、はっきりと「革命の力」という項に、

「日本の解放と民主的変革を平和な手段によって達成し得ると考えるのは間違いである」

と規定しているのであります。

又日共党員が長野県岡谷市警を爆破する計画でダイナマイトを貯蔵していたと言われるいわゆる岡谷事件の公判、それは昭和28年4月10日長野地方裁判所諏訪支部の法廷でございますが、山辺健太郎氏、これは当時中央指導部統制委員でありますが、この人が証言いたしまして、

「民主革命の手段は平和裡に行われる可能性はあり得ない。これは勿論全国民の武装闘争、占領軍に対する武装闘争です。」

とはっきり陳述しているのであります。

一方昭和27年8月7日、埼玉県比企郡大河村における横川元代議士の襲撃事件は、これは強盗殺人未遂罪になっておりまするが、これは日本共産党員によって組織された武蔵野独立遊撃隊及び西武独立遊撃隊の犯行であることは被疑者の供述及び収集された各種の証拠から明白であり、判決理由もこのことを認めているのであります。

又昭和27年8月1日静岡県両河内村における「球根栽培法」、同年9月10日、京都市における「武装行動綱領」を登載した「京都のハタ」、同年9月20日三重県上野市における「武装行動綱領」、同年10月25日岐阜県益田郡下呂町における「山旅案内」等という暴力革命、武装闘争の必要性や正当性を述べている違反文書を頒布している事実がありまして、それぞれ事件として起訴されておるものであります。

この種の暴力主義的破壊活動が合法政党である日本共産党自体の行為であるかどうかについては今日裁判上確定したものではないのでありまするが、少くともこのような活動を団体として行なっておる団体があることは確実でありまして、それが日本共産党の下部機関と密接な関連があることは予想されるところであります。

これらのほか、26年12月28日練馬印藤巡査殺人事件、27年1月21日白鳥警部補射殺事件、27年5月1日のメーデー騒擾事件、27年6月25日吹田騒擾事件など一連の計画的暴力騒擾事犯が日共党員を混えた人々によって行われたということは、今日まで捜査の結果乃至は判決に徴しても明らかなところであります。

そういうような団体の活動については、治安維持の責に任じます警察といたしましては、厳重に視察しているということが必要であるということは言うまでもないことと思います。





昭和32年03月22日 参議院 地方行政委員会
[070]
政府委員(警察庁警備部長) 山口喜雄
それから先ほどの占領政策との関係云々、これはざっくばらんに申し上げますと、これは何も当時の占領軍あるいは駐留軍と関係ございません。この事件はもうはっきり当時の中核自衛隊が現場で起して、それを現場で逮捕したというに過ぎないのであります。

で、お言葉を返すようで恐縮ですが、これは御承知のように、26年の暮に党があの軍事方針を作って、27年の2月から各地でいろいろな事件を起させておるのであります。

たとえばメーデーの皇居前広場の事件、これは27年5月1日、それから京都に京都統一メーデー事件というのが起っております。

27年の4月には都下の武蔵野警察署に対して火炎びんが投げられた。

27年の4月18日には渋川警察署を襲撃しておる事件が起っております。

27年3月24日には小河内村の先ほど申し上げました工作隊の事件が起っておる。

それから27年3月1日に特審局中国支局にデモ隊がなぐり込みをかけた事件が起っておる、

あるいは吹田の操車場事件というものは6月25日、

それから名古屋の大津(※大須)事件というのが、これはあそこで大きな騒擾事件が起ったのですが、これは7月7日、

さらに若干おくれておりますが、横川代議士が襲撃されましたのも、これは27年の8月のことであります。

当時、党がそういう軍事方針を打ち出して、全国的にそういう事件を起しておったというのは、これはまあ事実だと思うのであります。それをもし破防法に結びつけてお考えになれば、こういう事件も全部それは関係当局がデッチ上げたということの方に、どうも行ってしまうような気がするのであります。

当時各所にそういう事件を起しておる、それの一つの現われ、しかも御不審に思われましたでしょうが、保守的な色彩の強いそういう山村地区に解放地区を作るというのが、大きな一つのねらいであったということを御了承願いたい。

それからなお御参考までに申し上げますが、当時、警察当局といたしまして、公安調査庁ができることを非常に支持しておったという事情でもなかったろうと、私は推察いたします。





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