昭和27年02月06日 衆議院 法務委員会
[044]
日本共産党 加藤充
これは先ほどの警察官に対する暴行事件などでも、練馬の巡査殺しなども、少くとも当初は背後関係に日共等があり、自由労組があり、そして思想的な底流を持った殺害事件として、しかも警察に与えた打撃として、重大な意味合いを持つ治安対策上ということから、真剣にずいぶん新聞あたりでも報道されていたと思うのでありますが、最近の新聞論調は、まだ結論ではありませんけれども、あそこらのパンパンと関連のある私情的なものだというふうに捜査方針がかえられて行ったかのごとく報ぜられていると思うのであります。
私どもは真相をどんどんお調べになるのはいいが、さっき言ったように、それを日共と結びつけるのは迷惑しごくだと言いました。
昭和27年02月23日 参議院 法務委員会
[090]
政府委員(国家地方警察本部長官) 斎藤昇
又練馬の事件は、犯人が、被疑者が一応検挙せられております。まだ最後の確定段階には至っておりませんが、一連の共謀をして殺人を行なった。これは新聞等で御承知の通りでございまするが、ほぼその線が明らかになっております。
併しこれはあの会社関係の労務者と当該警察官との感情の対立からあそこまで行ったものと見るか、全体の一連の指導に基くものであるか、この確証なかなかちょっと断定しがたいと思っております。
昭和27年02月23日 衆議院 法務委員会
[005][006]
(略)
[021]
自由党(自由民主党) 押谷富三
そこで当日暴徒のために奪われたピストルでありますが、これはまだ発見をされておらないようであります。今後も今の「球根栽培法」の指示に従って彼らは警察官の武器をねらうということはあり得るのでありますが、過去において警察官がピストルを奪われたような事実があるか、またあればその数はどれくらいであるかをお聞きかせ願いたいと思います。
[022]
参考人(警視総監) 田中榮一
お答えいたします。従来警察官の拳銃を奪われた数は、今手元に資料を持っておりませんので、正確な数字を申し上げかねるのでありますが、ときに警察官が派出所等において休憩中に、外の何者かに盗まれたようなことが1、2回あるのであります。それからまた寮におきまして1回拳銃を盗まれたというようなことも承知いたしております。しかしこれらの拳銃はいずれも昨年春以前のものでありまして、私の想像としては、これは単なる物取りまたはそうした拳銃を奪取して他へやみで転売して金にかえるというような目的のもとにとったのではないかとも考えられるのであります。
昨年の12月26日練馬署管内におきまして印藤巡査が多数の暴漢に襲われまして惨殺せられ、しかも拳銃を奪取されたのでありますが、これと今回甲斐巡査が多数の暴徒に取囲まれて拳銃を奪取された、この2件につきましては私は単に物取りのしわざではない、ある一つの目的を持った犯行である、言葉をかえて申しますならば、いわゆる思想的背景を持った犯行であろうということを考えざるを得ないのであります。
昭和27年03月14日 参議院 法務委員会
[009]
参考人(警視総監) 田中榮一
それからフラク活動としてもう一つここに申上げたいのは、先般練馬の管内におきまして印藤巡査が小田原製紙の第一組合員の手によりまして惨殺をされたのであります。
これにつきましては警視庁といたしましても思想的背景のある犯罪ではないかというような見地から、相当厳重に調査いたしました結果、大体犯人と認められる容疑者を逮捕いたしまして、これは検察当局において起訴いたしておるのでありますが、その中にこの関係者の家宅捜査をいたしましたところ、これは練馬区旭町の或る人でありますが、その家宅捜査いたしましたところが、この地区で恐らくこのビューローで印刷されたと認められるような徴兵拒否青少年婦人懇談会志茂町準備会と、こうした警察手帳の内容を印刷しました手帳が出ているのであります。
昭和27年04月25日 衆議院 行政監察特別委員会
[008][009]
(略)
[010]
委員長(自由党) 内藤隆
ただいまの警視総監田中榮一君の証言によって、大体昨年12月以降からの事件内容等はわかりました。また御説明によって、そこに一つの一貫した何か背景があって、その指導によって動いていたような形が十分に発見し得ると私も考えるのでありますが、ただいま申された事件の中で警備上特に注目されると思うもの、または日本共産党との関連性等があると思うものがありますか。
まず印藤巡査の殺害事件につきまして、これは思想的背景がそこにあるということをお認めになりませんか。
[011]
証人(警視総監) 田中榮一
この印藤巡査の殺害事件につきましては、警察側といたしましては、当初から思想的背景があるものという一つの目途のもとに捜査に当って参ったのであります。同時に印藤巡査はその付近のいろいろな執行にあたりましては、相当強い執行をやっておったのであります。
たまたまその印藤巡査の勤務しております駐在所の付近に小田原製紙という製紙工場がございまして、この製紙工場が11月中旬ころからいわゆる賃上げ闘争が始まりまして、その当時工場労働争議が突発しておったのであります。その際に、印藤巡査が工場側に加担したとかしないとかいうようないろいろな風評が流布せられました。印藤巡査といたしましては、管内の工場に労働争議が発生をいたしておるのでありますから、警備上の責任を担当しているものといたしましては、当然工場の労働争議をそのまま黙視することはできないのでありまして、経営者並びに労働者の相互のいろいろな生命、身体、財産を常に保護し、またこれを十分に監視をしなければならぬという職責にあるのでありまするが、それがたまたま12月の中ごろになりまして、経営者側が非常に腰が強くなって来て、遂に労働者側が敗退をいたしたのであります。
この労働者側が争議において負けたというのは、少くも印藤巡査等が大いに加担したのではないかというような一つの邪推からいたしまして、印藤巡査に対しまして、労組員なんかが非常に反感を持っておったという事実はあったようであります。
そこで労組側におきましては、その後労組の中の外部の団体が常に工場に出入をいたしまして、そうして労働組合を指導する。しかもきわめて過激な思想を持った外部団体が常に出入いたしまして、労働組合を指導しておったというような事実はあったようであります。
その後労働争議は完全に経営者側が勝ちまして、一応争議は妥結に至ったのでありますが、妥結したその翌日、すなわち昨年の12月26日に、ある1人の学生から、その付近の畑に行路病人が倒れておるから、すぐ救済に来てほしいというような申出がありました。
印藤巡査は何か心中に不慮の災害が起るのではないかというような予感があったのでありまするが、平素はそうしたことがなかったので、拳銃を身につけまして、その学生の導くままに、心配することはないからと家族に言い残して行ったのであります。
ところが2時間たっても3時間たっても印藤巡査は帰宅しないというので、妻女が非常に心配いたしまして、隣接の駐在巡査に連絡して捜査をいたしました結果、明け方になりまして、約500メートルほど離れておりました畑の中に惨殺死体となって現われたのであります。
印藤巡査は柔道2段の腕前でありまして、相当武道の自信を持った男でありますが、数箇所できわめて激甚なる格闘の跡がありまして、最後に鈍器のようなものでしたたか殴打された。それが頭蓋骨折を起している致命的打撃でありまして、この一撃によって遂にあえなき最後を遂げたのであります。
それでただちに捜査本部を練馬警察署に設置いたしまして捜査いたしたのであります。現在までにそのそばにおったと認められる者、それから共同謀議をしたと認められる者等をそれぞれ検挙いたしまして、一部は自供をしております。
一部はいまだ否認のままでございまするが、大体においてアリバイ、それからその場にあった凶器、それから本人の陳述、それらをいろいろ考察いたしまして、いわゆる小田原製紙工場の第一組合員の一部の者がこの事件に関連し、またこれを外部から使嗾(しそう)いたしたと認められる、相当はげしい思想を持った人々が数名加わっております。
ただいま本事件は検察庁におきまして調査いたし、起訴されるということになっておりまするが、これらの点から考察いたしまして、もちろん印藤巡査は執行が相当厳格でありましたので、他の点から恨まれたこともあろうと思いまするが、単に執行がはげしかったということで、計画的にかくのごとく数名の者が共同謀議して惨殺するだけの恨みを買っている巡査ではないのでありまして、かような点から私どもといたしましては、はっきりこれは思想的背景を持った一つの、一部の者に指導された惨殺事件であるというように推定いたしておる次第であります。また検察当局におかれましても、同様な推定をいたしておるものと考えます。
[130]~[135]
(略)
[173]~[273]
(略)
昭和29(あ)1056 傷害致死、暴行、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、窃盜
昭和33年5月28日 最高裁判所大法廷 判決 棄却 東京高等裁判所
昭和33年5月28日 最高裁判所大法廷
裁判長裁判官 田中耕太郎
裁判官 真野毅
裁判官 小谷勝重
裁判官 島保
裁判官 斎藤悠輔
裁判官 藤田八郎
裁判官 河村又介
裁判官 小林俊三
裁判官 入江俊郎
裁判官 池田克
裁判官 垂水克己
裁判官 河村大助
裁判官 下飯坂潤夫
裁判官 奥野健一
裁判官 高橋潔
所論は憲法14条違反を主張する。しかし原判決の維持する第一審判決の掲げる証拠に「法務庁特別審査局調査部長の共産党員届出の有無についての回答書2通」の存することは所論のとおりであるが、所論のような事項は原審で主張なく、したがって原判決のなんら判断していないところである。のみならず記録によれば、原判決は、所論の証拠のみを所論の補強証拠とした趣旨でなく、他の証拠と相まって被告人等の本件犯行が共産党員の政治闘争の一環としてなされた事実を立証したに止まることが認められるから、所論違憲の主張ほ前提を欠き採用できない。
(略)
所論は判例違反を主張する。しかし数人の共謀共同正犯が成立するためには、その数人が同一場所に会し、かつその数人間に一個の共謀の成立することを必要とするものでなく、同一の犯罪について、甲と乙が共謀し、次で乙と丙が共謀するというようにして、数人の間に順次共謀が行われた場合は、これらの者のすべての間に当該犯行の共謀が行われたと解するを相当とする。
本件について原判決によれば、被告人Bが昭和26年12月25日夕被告人A方を訪れ、同人に対し北部地区の党員らが協力して同月26日夜2班に分れ印藤巡査およびCを殴打すること、および参加人員、集合場所、実行方法等について指示し共謀したというのであり、その指示を受けた右Aが順次各被告人と共謀していったというのであるから、各被告人について本件犯行の共謀共同正犯の成立することをなんら妨げるものではなく、また所論引用の判例に違反するものではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/練馬事件
#練馬事件 のツイート